五分前に何をしていた?
そう聞かれればほとんどの場合答えられるだろう。
健常な人間で五分前の記憶が錯乱していたら病院に行くことになる。
しかしその記憶は一体どこから来るのであろうか?
もしかしたらその記憶は誰かに作られたのかもしれないし、今まで当たり前だと思っていたことが全く事実とは違うということはあり得るのではないか?
周りの人たちも嘘をついてるか、それが事実だと錯覚しているだけだとしても、それを確かめる術はない。
一度は誰でもそんなことを考えたことがあるかもしれない。
今回はその記憶という概念の曖昧さについて考えてみよう。
記憶とは一体何か。
解剖学や、生理学をという人体の基礎を学んだことがある人はなんとなくそれについての知識はあるかもしれない。
しかしそれについての本当の詳しいメカニズムはわかっていないのが現実だ。
一般的に脳の神経細胞が発火し、引き起こす繋がりが過去の記憶を思い出させると考えられている。
脳の活動域で記憶には主に大脳皮質や視床、そして大脳辺縁系の海馬が関わっている。
特に過去の経験を物語のように思い出せるエピソード記憶は海馬と関わりが深い。
つい最近の研究では、音や匂いによって記憶を引き起こす時に発火する細胞が発見された。
それはイベント細胞と名付けられ、海馬や大脳皮質に存在するこのイベント細胞の発火の強弱によって記憶の情報を変えていると述べられている。
詳しくは理研のページへ。
このような結果を見る通り、神経細胞の高まりが記憶を司っていることは間違いないとしても、その神経細胞の興奮はどこからやってくるのであろうか?
脳とは人体の中で最も謎が深い部位だ。
一説には脳内には量子コンピュータのような構造があるのではと考えられている。
人体のような分子や原子の渦の中で量子コンピュータのような構造を持つことは普通に考えれば不可能だが、植物の光合成のように量子の動き無しでは説明できないものが存在する以上、人体内にもそれを可能とする何かがない可能性はないとは言い切れない。
意識や記憶を辿るとそれは神経発火のつながりだ。
そこで少し神経について深く考えよう。
(解剖学に興味がない人は少し読みだけ飛ばすことをお勧めする笑)
神経細胞は三つの部位からできている。
クモのような形の”細胞体”、そこから長く伸び得る”軸索”と、その先にある”軸索末端”だ。
最初の電位は細胞体から起こり、それが軸索を伝って、軸索末端に電位が行き着いた時にその末端から化学物質が出る。
それが次の神経細胞の細胞体に電位を起こし、連動していく。
そうして神経発火の繋がりは出来ていくのだ。
神経の発火が繋がって形を成すには一番最初のニューロンに電位を起こす必要がある。
ではその最初の電位はどうやって生まれるのだろうか?
発火の引き金は目や匂いなどの受容器の刺激によって与えられる。
神経細胞内と外には電位差があり、細胞体の表面にあるナトリウムチャネルが開くと同時に外部からイオンが細胞内に流れ込む。
その結果、細胞内外の電位差が小さくなると別のチャネルが開く。電位依存性チャネルと呼ばれるものだ。これらのチャネルが開くことによって外部から陽イオンが一気に流れ込みショートを起こす。
これが最初の神経の発火となる。
つまり信号の始まりとはナトリウムチャネルが開くことだ。
ナトリウムチャネルとはイオンチャネルの一種だが、イオンチャネルは量子的な動きによって引き起こされている可能性があるとされている。
昔書いた記事でも少し言及している。
イオンがチャネルを透過する時に粒子ではなく波として透過している可能性だ。
よって量子のコヒーレント状態を保ったままイオンがチャネルを透過しているのではないかと考えられ始めている。
イオンが量子の動きによって引き起こされるのであれば最初の引き金はランダムに起こることになる。
脳のどの分野で神経の発火が起こっているかを脳波から特定できても、どの神経細胞で発火が起こりどのように広がっていくかは定かではない。
では意識の最初の引き金が量子のランダムで起こされるのであれば、それ以降の連鎖も全てがランダムということにならないだろうか。
神経信号が軸索を伝う流れも電線のように伝わっているのではなく、隣接する電位との相互作用によってドミノ倒しのように伝わっていく。
神経の繋がりとは相互作用の連鎖だ。
量子のデコヒーレンスは他の原子との相互作用によってもたらされる。
最初は一つのイオンが引き起こすランダムだったものが相互作用を大きくしていくことによって、デコヒーレンスを徐々に引き起こしていく。
仮にそうだとすれば我々の意識や記憶、そして現実とは、
脳に信号が生まれた瞬間にランダムで決定されるということにはならないだろうか?
万が一、記憶が脳に貯蔵されるものではなく、その時の脳内でランダムで決定されるのだとしたら他人との記憶に誤差が生じ、世界に矛盾が溢れることになる。
しかし自分が過去に経験したことと周りの人間が経験したことがすれ違うことはほとんどない。
誰かとタイ料理を食べた次の日には、自分も他の人間もタイ料理を食べたという記憶で合致する。
過去に大きな怪我をした記憶があれば、身体にはその傷跡があるはずだ。
ここから見て取れる通り、記憶、つまり過去は肉体や他の物質にも影響している。
もしも記憶が自分の脳内でランダムに決定されるものだとしたら、他の人とは記憶が合わないはずだし、肉体にも矛盾が見て取れるはずだ。
しかしその問題はデコヒーレンスの連鎖が解消してくれる。
例え意識の始まりがランダムなものだとしても、脳の中で意識が認知される頃には既に無数もの神経信号が繋がり合っているということになる。
上に書いた通り、ランダムなものが相互作用を起こして繋がり合えばそれらは互いに観測し合って、デコヒーレンスを起こしていく。
そのデコヒーレンスは脳から広がり、結果的に肉体にも作用する。
肉体に生まれた変化はこの世界の環境に作用し、その変化が他の人間にも作用していく。
このようにデコヒーレンスが連鎖していくことによって、初めはランダムだったものが形を帯びて現実を作っていくのではないだろうか。
そうなると脳では常にランダムに記憶が決定され、過去が決定され、周りの現実もそれに応じて変化していることになる。
この理論では周りの人間を変えてしまうのも自分の脳ということになってしまう。自分の脳が世界を作る可能性があるとしてもこの考えだと不可能とは言い切れない。
それでもこの世界についての認識が変わることには間違いはないだろう。
仮にこの仮定が正しかったとしても、
自分の考えが世界を作っているということにはならない。
なぜならこの考えだと自分の認識も記憶も記憶も周りの人間も全てが常に変化していると考えなければならないからだ。
今は僕はニュージーランドにいるし、そこに至るまでの過程も頭の中に記憶として残っている。
そしてそれは紛れもなく僕にとっては過去であり、他の友達にそれを話しても皆が同じように記憶している。
しかし次の瞬間、脳の気まぐれによっては日本にいるかもしれない。
そうなるとその僕にとっては紛れもなくそれが現実であり、今の僕が持っているニュージーランドについての記憶や過去なども全てがなかったことになる。
正確に言えば、その過去を持っていない僕になってしまうのだ。
その次の瞬間にはアメリカにいる僕になっているかもしれないし、またその5分後には工場でせっせと働く僕になっているかもしれない。
周りの環境もそれに合わせて変わり続けるため、そうなったところで自分が違和感に気づく手段も何もない。
今目の前に誰かがいるとしても、その人たちは今の自分が持つ記憶の中で生きた人であり、次の瞬間には全く違う過去を持つ人になるかもしれないし、ましてや存在すらしない人かもしれない。
そう考えると今の世界で自分が一生懸命に頑張っているのが虚しくなるかもしれないが、
現実はそのくらいランダムで、形のないものなのだ。
中心を動いているのは常に高い次元にあるもので三次元の我々はその淵に存在している。
コヒーレントを保つ量子の世界が高次元である以上、それを決定するのは三次元の僕らではない。
高次元の世界が僕らの現実を虚しくも決定づけてしまうのだ。
この壮大な仮説から導き出されることは、記憶は僕たちが作っている物ではない。
無数にある過去や現実の中を僕たちが縦横無尽に駆け巡っている、という現実だ。
”地球が太陽系の中心にある”と思われていたのが覆ったように、
”無数にある記憶を我々が動いている”という認識が生まれるのも
そう遠くないのかもしれない。
なるほど…実に面白いですね。
創作のネタとしては。
SFの映画とかでありそうですよね。
でも相対性理論が大衆化する以前に時間のスピードが変わると誰かに言っても現実にあると信じられないと思いますし、この世界は僕たちの常識の遥か上をいくものだと思っています。