この世界の全ての人はこの世に生を受けた時には何も知らない。
その状態から周りの人々から情報を得たり、学校で教育などを受けながら、自分が住んでいるこの世界がどのようなものか学んで成長していく。
しかしそれを教えている大人たちも、今までの歴史や人類の生い立ちを彼ら自身で確認したものは誰一人としていない。
ただただ教科書に書いてあることや、記録に残っていることを事実として受け入れていくことしか基本的にはできない。
人間には想像という力が備わっている。
他の動物たちには備わっていないその不思議な能力によって、世界の成り立ちについて理解を深めようとするのが人間である。
想像力を使った先に生まれるのが、個人の抱く解釈であり、その個人の解釈が大きく派生して他の人々に影響するのが宗教である。
今回の記事では死生観について述べる。なので先に自分には特別に信仰する宗教はないと言うことは明言しておく。
また今回の記事は当たり前のことだがただの想像で、確証性は全くない。
この世界の正体は自分たちが認識している姿とは根本的に違うと考えている。
そのあらゆる可能性の中では、この世界は実はゲームであるという可能性も拭えない。
今回はそんな宗教的な話のようで当たり前の話である。
まずはこの世界とは何か考える時に避けては通れないものがあるため、そこから注目していこう。
人生の始まりと終わり、”生と死”についてだ。
人は間違いなく死ぬ。
どんなに財産があろうが、知識や力があろうが、遅かれ早かれ終わりはくる。
”死”とは人類にとって永遠の謎であることは間違いないが、上に書いた通り人には想像という力が備わっている。
他の動物たちには今の所見られないこの能力で、今持っている限られた情報から、死の先には一体何があるのか想像することができる。
”死”は、今いる世界からいなくなることだ。
少なくとも自分たちが今いる世界からは消えてしまう。なので死ねば通常他の人々とはコミュニケーションをとることはできない。
この世界はなんなのか自分たちは理解できていないが、間違いないのは自分たちは三次元のマクロな世界しか認識できず、
一説では11次元にも及ぶと考えられているこの宇宙の中では低い次元にいる。
次元がどこまで及ぶか明確にはわからないが、それは時間などに縛られている不自由な自分たちを軽く凌駕する形で存在している。
そのような低次元な世界にしか自分たちが存在できないのは何故なのか。
それは肉体が三次元の物質だからだ。
肉体を形作るのは原子で、原子は中性子や陽子、電子などの量子的な素粒子で作られる。我々から見れば一人の人間でも、それぞれ原子の集まりにすぎない。
つまりミクロな世界から見ると身体は無数の星が集まって形作る銀河のような集合体であって、一つではないあやふやな存在だ。
自分たちは三次元の存在なので原子やミクロの世界を認知することはできないが、今この瞬間でも誰もが間違いなく感じている不可解なものがある。
呼び方は様々だが意識や、自我、魂、心などと呼ばれるものである。
この意識や心が三次元とは別の次元に存在するものだという根拠は発見されてはいないが、脳というまだ謎の多い複雑な神経回路の中には三次元を超える神経構造がある可能性は大いにある。
形はないが確かに存在し、果てしない可能性を秘めているのが意識であって、心である。
それを考えると意識は肉体とは違ったより高い次元に存在するという考えは案外的を得ていると思う。
ではその高次元にあると思われる意識は肉体が死ぬとどうなるのか。
脳の活動は失われて全てが消えてしまうのか。
上にも書いた通り、身体はそもそも原子や、素粒子の集まりであってあやふやなものだ。
その大きな集合体が我々が認知できるマクロの世界で動きを停止したというだけで、素粒子の世界や高次元の世界でも活動を停止したと結論づけるのは少し無理がある。
実際に死んだ直後でも神経活動はしばらく継続する。心臓が止まった後でも脳は働いているということだ。
そして最終的に観測できる脳波が消えたとしても、ミクロな世界の奥、つまりより高い次元ではその活動が消えているかというのは確認することはできない。素粒子が波になっている状態を我々は見ることができないのと同様、高い次元に人間の意識が入ってしまったらそれを追うことはできないからだ。
ここから生まれる仮説は、
人は死ぬと意識が三次元のくくりから抜けて、高次元に入る。
その一連の流れを世に浸透した言葉で表すと何というべきか。
それこそが”成仏”だと思っている。
そしてその意識が入ることになる高次元の世界が、”天国”や”極楽浄土”と呼ばれる世界なのではないか。
天国や極楽浄土は誰もが一度は聞いたことがあるはずだが、神や仏を信仰していない人にとっては一種のオカルト的な考えだろう。
しかしこのように考えると意識という情報が別の次元に入ることは物理学的にも十分あり得る。
高次元に入ることは新たな世界に足を踏み入れると捉えられるが、もう一つ別の捉え方もできる。
自分たちは元々その高次元の世界から来た可能性である。
つまり我々はこの世に生を受けた瞬間から、三次元という低い次元の世界に入って暮らし、身体が朽ちると同時に元にいた世界に戻るという考え方である。
もしも自分たちは元々が三次元の住人ではなく、高次元から入って来た存在なのであれば、なぜ我々は低い次元の世界に入って来たのだろうか。
試練か、刑罰か。
様々な憶測があるだろうが、ここではこの記事の本題に入っていこう。
それは三次元に入ることが彼らの”娯楽”だった場合である。
人を観察し、我々が楽しみたい時に何をするか考えるとある傾向が見えてくる。
我々は不自由の中に楽しみを見出している。
その一つの例として映画がある。
映画は二次元の世界だ。時間軸は早送りや巻き戻しによってこちらからは操作可能であるが、映画の中のキャラクターはそれを知らず、懸命に物語を全うする。
我々が映画を観て楽しめる理由は、一度完成されたその物語は我々には編集が不可能だからだ。
好きなキャラクターが映画内で死んでしまっても、それを我々は変えることができない。ストーリー上でそのキャラの死は既に決まってしまっているからだ。
もしもそれを個人の意のままに変えることができるのであれば、映画はつまらないものに成り下がる。
現実で遊ぶスポーツにも、不自由にするために必ずルールが備わっている。
ゴールキーパーとディフェンスがいないサッカーゴールに手でボールを転がして入れても楽しみなどは見いだせない。
ルールがなくなり、なんでもありになった瞬間にそれは楽しいものではなくなるのだ。
我々のいるこの三次元の世界は高次元の彼らにとっては、不自由な世界だ。
重力に縛られ、時間に縛られ、空間に縛られている。
それがこの世界のルールで、その不自由さは時空を凌駕できる彼らからすると楽しみの一つとなり得る。
よって彼らは我々が テレビゲームをするような感覚で、この世界に入ってくるのかもしれない。
生まれて数十年、我々が全てだと思っているこの世界は、仕事終わりに家でRPGをするようなレベルの娯楽である。
高次元の世界が存在し我々がそちらの元々の住人であれば、そんなありえない説も可能性はある。
ゲームを80年間も続けられないと思うかもしれないが、人の一生の約80年は自分たちがこの世界にいる間だけの概念だ。
人生が終わってあちらの世界に戻ったら、この世界で過ごした80年は一瞬で全て認知できるものになる。そもそもあちらには時間という概念が存在しないからだ。
夢で1日近く過ごしたつもりが、起きると一時間しか経っていないなんてことがあるが、感覚としてはそれに近いだろう。
この人生が娯楽だった場合、そのゴールは何か誰もわからない。
RPGのように強大な敵から世界を救うというほど単純な世界でもないし、ただ人類の文明を発展させることにも意義があるとは思えない。
一人の人生は他人と比べようがないため、個人としてのゴールは定めることができないが人類全体が手を合わせあって一つの目標に向かっているのであれば話は変わってくる。
つまりソロではなく、チームプレイだった場合だ。
この世界に生まれた時には記憶はないため何を目指すべきかは理解できない。
しかし全ての動物たちは唯一原始的な欲求を持って生まれてくる。
それらの本能は生きるための本能だったり、子孫を残すための本能になる。
この原始的な欲求とは生まれる前からこの世界に持ってこれる唯一のヒントかもしれない。
そうであれば、生きる本能がある我々は生きなければならない。生殖本能がある我々は次の世代に情報を繋げていかなければならない。
人生がどんなに辛くとも、途中で生きることを放棄した時点でそれはゲームとしては成立しない。
次の世代のことを考えず、目の前のことだけを考えればゲームとしては成立しない。
ゲームを途中で諦めて、人生を全うする前に自らゲームを降りることは、自らの価値を全否定してしまうことになる。
この地球上で今までの人類の全てが力を合わせて一つの目標に向かっているのであれば、
この星の全ての生物、歴史上の誰もが一つのチームだ。
我々が世界の真実にたどり着いた時がゴールか。
ある星に降り立った時がゴールか。
もしくは全人類が滅びる時までにカウントされたポイントで競い合っているのか。
いずれにせよ、このバトンを次に繋げることで我々は個人のゴールを達成できる。
ここまでの仮説を考えれば、我々のやるべきことは明確である。
一つ、最後までこのゲームを楽しんで生きること。せいぜい生きても80年程度。
自ら死を選ぶなどの途中リタイアは周りのチームメイトに迷惑がかかるため、死後も好まれない。
二つ、考えることを最後までやめないこと。我々がチームであるのならば、少しでも多くのバトン(情報)を次の世代に渡していくことでゴールに近づける。死んだ後はゆっくりと自分が何かを託した者たちを応援すればいい。
三つ、自分で自分の格を下げないこと。この地球上は皆がチームで平等の選手だ。他人と比べて自分にない物ばかりを見てはいけない。
人に縛られずに自分の好きなようにやればいい。ゲームなのだから。
人は何をしようとも向かう先には”死”があり、その先に何があろうがそれこそがゴールである。
お金や名声があろうが、死ねば同じだ。
この壮大なRPGのゴールに向かって、今できることをやろう。