”便利”は人から”幸せ”を取り上げる。人は不便に生きることで”楽しみ”を手に入れる。

毎回日本に帰って思うことは日本は便利すぎるくらい便利だということです。

 

空港のコンビニに入った瞬間、いつも感動と衝撃を与えられます笑

あ、これこそが”コンビニエンス”ストアだなぁと。

 

おでんがレジ横にあるなんて反則級。冬場に買わないわけがない。

弁当や、おにぎりのありえないバラエティ。一年近く間を開けるとすでに新商品だらけ。

 

日本の便利さはコンビニだけには留まりません。本当に何もかもがクオリティが高く、便利なんです。

毎回それに対して感動して、ここまで徹底してすごい国だなぁという思いを持ちます。

完全に逆カルチャーショックです笑

 

しかしここで知っておかなければならないのは便利さと幸せは比例しないことです。

多くの人が便利であることはいいことだと考えていますが、僕は全くそう思いません。

 

基本的に人間は不便に生きるべきだと思っています。



”幸せ”がある場所は”不便”の中

日本に帰ると感動して、コンビニに一時間近くいれたり、お菓子を買いまくったり、いろんな種類のおにぎりを買ったりと興奮が続きます。それに感動し、感じるのは”幸せ”です。

 

しかし一週間も経てば、その感覚は激変します

あんなにテンションの上がっていたコンビニも当たり前になり、おにぎりも当たり前にいつも梅干しを選ぶようになり、おでんも当たり前になり滅多に買わなくなります。

そうなった以上コンビニに対する感動は自分の中から消えてしまいます。

 

なぜそこまで変わってしまうのでしょう。

そう、慣れです。

人はどんなに便利なものを手にして感動したとしても、それが常にあると慣れてしまい、そこに対しての感動は消えてしまうのです。

 

つまり日本のコンビニが当たり前になった瞬間に僕は、帰国したばかりの自分よりも”幸せ”を一つ失ってしまったわけです。

 

その便利が当たり前になった後で自分がまた海外に行ったら、コンビニが9時にしまったり、品物が全然無かったりということがあるかもしれません。そうなると今度感じるのは日本のコンビニと比べてしまうことによる不満です。

そしてその不満が起こすのは”不幸”になるのです。

 

人は便利を求めているはずなのに、その結果実際は幸せを失い、その次には不幸を感じています。

なぜそう感じてしまうのでしょうか。

 

 

答えは単純で、人は不便の中に生きがいを見出すのが性だからです。

 

サッカーでボールを手で持ってはいけないのはなぜでしょうか?

もちろんルールがあるからです。そして全てのルールは不便を作るためにあるのです。

なんでもありな球技なんて面白くもなんともありません。

 

ギャンブルでは基本的に負けるはずなのに人気が止まない理由はなぜでしょう?

それはむしろ滅多に勝てないからこそ勝った時の感動が大きくなるためです。

もしも常にいつも金が出続けるギャンブルがあれば人は集まるでしょうが、そこに楽しみは生まれません。

 

 

人が”幸せ”になるのは達成感や、満足感、優越感を感じる時です。

そしてその感覚は難しいものであるほど大きくなります。

 

生物にはどの世界でも難題を超える力が必要です。

そのために生まれつき備わっているのが満足感や達成感であり、それらが幸せという感情の源です。

 

故に難題である不便性を取り除いて便利にするということは

幸せとは正反対なもので当然なのです。

 

自動の危険性

僕は基本的にマニュアルなものが好きです。

 

例えばコーヒーを淹れる時には、職場ではカフェにあるような手動で淹れるエスプレッソマシーンがあるのでそれを使いますし、家で飲む時には豆を手動のミルで挽いてから、エアロプレスなどで作ります。

最近よくあるパックと水をセットするだけでコーヒーが出るマシーンはあっても使いませんし、インスタントコーヒーも飲みません。

 

僕の車はマニュアルで、オートマの車をこれから所持するつもりも(今の所)ありません。

時計はバッテリーではなく、ネジ巻き式が好きです。

 

僕の好みの問題もありますが(笑)、これら全てに共通するのは手間がかかるということです。

そして手間がかかればかかるほど、それには技術が要されるようになってきます。

 

 

例として車の話をします。

今の時代オートマ車が主流です。日本にはオートマ専用免許というのもあるくらいマニュアル車は過去の産物となりつつあります。

 

マニュアル車が減ってきている理由は単純に運転するのが難しいからです。

ギアやクラッチのタイミングなどはもちろんですが、その車によって全く感覚が変わってくるのもマニュアル車の特徴です。自分の車だとスイスイいけても、他人のマニュアル車に乗った瞬間ガタガタ揺れまくりの運転になることなんてザラです。乗っている人数や傾斜の角度などでもクラッチの感覚は微妙に変わってきます。

両手両足を使わないと動きもしないマニュアル車と、ブレーキから足を上げるだけで進むオートマ車の感覚は、ほぼ全く違う乗り物だと言っても過言ではありません。

 

なぜオートマがあるのに、わざわざ面倒くさいマニュアルに乗ってるの?とよく聞かれます。

理由は単純に楽しいからです。

 

教習所で初めてエンストして、ガタガタ発進しながらも、覚えたての半クラッチでギアを変えながらスピードを上げていくあの感覚がただアクセルを踏むだけよりも面白いと思ったからです。

 

車を移動手段とだけ見れば、運転することは簡単である方がいいのかもしれません。

しかしそれを楽しむことができれば、移動時間も自分の楽しみに変えることができます。

 

 

現代ではもはや全自動で運転してくれる車があります。技術は十分なのであとはGPSや、道路の調節が完了すれば導入になるでしょう。

それが主流となると自分で運転することすらも古いことになります。

目的地を設定さえすれば、あとは車の中で映画とか見たり、睡眠を取ったりしてたら勝手に目的地に着いてしまいます。

 

確かにそれは便利でしょう。

忙しい人は移動時間も車の中で作業することができるため仕事効率も向上するはずです。

 

しかしそれは同時にドライブという楽しみの消失を意味します。

友達と車を代わる代わる運転しながら何十時間もかけて行くロードトリップが楽しいのは、何時間も運転する大変さ睡眠時間を削ることによる不便さがあり、それを友人と共有するからです。

便利=良いことと考えている人がこの世の大多数を占めている以上、数年後にはその楽しみは消えていることでしょう。

 

”自動”とは便利である代償に、人の楽しみを壊す危険性を常に孕んでいます。

 

幸せを感じるには”こだわること”が大事

では便利によって楽しみがなくなるのを阻止するにはどうすれば良いか。

簡単です。こだわりを持つことです。

 

自動が生み出すのは常に平均です。全人類に対応している以上、可もなく不可もないのが自動です。

何かにこだわる心がある人はその平均では満足できない人です。

 

自分の好きなものは平均ではありません。好きな感覚は自分だけのものなので、その自分を満足させるにはみんなの平均ではダメなのです。

だからこそこだわる人は好きなことに妥協をしません。そして自分の満足できるレベルの物を自分で作ります。

 

結果そこに生まれるのが幸せの源である達成感満足感です。

自動で手に入れられるようなものは価値あるものではなく無難なものです。

なので自分周りを無難なものばかりで固めるのはやめましょう。

 

便利になると、こだわりを失い、こだわりを失うと人生がつまらなくなります。

僕が今まで会った限りこの人楽しんで生きてるなぁって思う人にこだわりがない人は一人もいません。

 

便利をうまく活用するには?

便利であることの危険性はこれまで書いた通りですが、便利を活用すべき範囲について理解していればそれはプラスに働きます。

 

上に書いた通り、自動などによる便利は無難なものですが、

人間はすべてのことにこだわりを持つことはできません。

なので自動を使うべきところは自分が興味を持っていない分野です。

 

 

例えば僕は一人暮らしですが、自分で作る料理に関してはあまりこだわりがありません。

僕は基本的に何を食べても満足します。本当になんでも美味しいんです笑

特にお腹が空いて入れば白米だけでも良いし、味噌汁とご飯さえあれば十分満足いく食事ができます。

 

そうなると料理に1時間や2時間かけようが、5分でできる卵ご飯とあまり大差ないと思ってしまいます。だったらその時間は読書に回したり、情報収集したりしてる方が僕にとっては価値があると思うのです。

集中してる時はいつも空腹を忘れて遅くまでやってしまうので、それだけ僕の中で食べることの優先順位は低い位置にあるということです。

なので冷蔵庫の食材から勝手に作ってくれる全自動料理器なんてものが将来できればすぐに使うと思います。笑

 

料理に興味がない自分が日頃から時間をかけるよりも、美味しいご飯は実家に帰った時や、レストランで食べる時で大満足というのが僕の考えです。

(家で母が作ってくれる料理を久しぶりに食べると感動が止まらないくらい美味しいです笑)

 

 

自分の中で優先順位が低いことに対して自動という便利さを用いるのは生活の質の向上させると思います。

 

僕とは逆に料理に時間をかけるのが好きで、車には興味がないという方ももちろん多くいると思います。

それはその人の好みなので当然です。

 

重要なのは、便利になることの危険性を理解した上で、便利の利用を最低限に抑えることです。

便利な世の中をすべて否定すれば良いというものでもありません。

 



終わりに

便利になることに対して、すべての人がしっかりと理解しておかないと歯止めの効かないことになります。

 

自動掃除機が既にあるように、いずれは”自動洋服着替えさせ器”や、”自動シャワー浴びさせ器”などが出て、家の中を自分で歩き回ったりしなくてもいい環境になるかもしれません。

もう既に一日中ベッドの上でテレビを見ながら、デリバリーで一歩も外に出ずに生活ができる世の中です。

しかしこのまま利便性に考えもなしに手を出していけばそれは人間の楽しみを奪い、世界を味気ないものにします

 

与えられるものだけをただ受け入れるようになれば、ただ呼吸をして生きるだけの存在です。

それでは家畜と同じです。

 

生まれた時から便利に囲まれた子どもたちは不便を知らずに育ちます。そのような子は自分が退屈していると知らないので人生は面白くないものと思ってしまいます。

家畜が生涯柵の中で大自然を走り回る楽しみを知らないまま死んで行くのと一緒です。

 

華やかに紹介される最新機種の向かう先には、人間にとっての華やかさなどはありません。

これから世の中には便利ではなく、不便が必要です。そうなることで今の世の中は全く違った世界になると思っています。

 

幸せは不便が作ります。

古臭いと言われようが、時代が変わろうが、僕はこれからも手動を選びながら生きて行くでしょう





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