【coffee thoughts #2】日本人は実はかなり宗教深いと思う話

宗教について考えることは物事を理解する上で非常に大事だと思う。

 

古くから人類がこの世や自分たちの存在について考え、導き出してきた真理への信仰心から生まれたのが宗教だ。

 

キリスト教、イスラム教、仏教を始め、派生なども合わせると世界中には数え切れないほどの宗教が存在する。

 

 

この様な記事を書くと勘違いされそうなので、まず自分には信仰する特定の宗教はないということだけは明言しておく。

この記事は宗教を信仰すべき、などと言っているものではなく、それを考える重要性について書いた記事である。




日本は特に宗教には寛大な国で、新興宗教などが数多く存在する。

そのため中には少し特異な思想を持っていたり、過激な商法を持つ宗教も少なくない。

 

 

 

そのためか、もしも日本で“宗教を信仰している”と他人に言うと怪しまれるだろう。

 

何か危ない思想を持っているのではないか。

宗教に勧誘されるのではないか。

といった不安があるからだ。

 

 

しかし突如インターホンを鳴らされ、ドアを開けると玄関の前に立っていてしつこく勧誘してくる様な宗教は世界的に見てもかなりの少数派であり、

その様な少数派の怪しい人間の団体=宗教という様な偏った認識だと、この世界の成り立ちや循環について深く理解することは到底できない。

 

 

 

宗教がなぜこの世界について理解するために大事かということだが、

それは現代の目に見えるものに偏った思考よりも、見えるものではなく本質を見ようとして派生したものだからである。

 

 

今自分たちが吸っているのは空気で、その空気の中には窒素をはじめ、酸素やアルゴン、二酸化炭素などが含まれている。

その中の酸素を供給し、肺胞内でのプロセスを経て、二酸化炭素を吐き出している。

 

多分これを知らない人間は義務教育を受けた日本人にはいないだろうが、

その中のどれほどが実際に酸素や二酸化炭素を見ることができたのであろうか。

 

 

当然0%である。

 

 

 

我々が網膜で感知できるのは可視光という光の中の一部分だけであり、それ以外のものは基本的には見えない。

 

中にはオカルトで聞く様な霊的な力でオーラが見えるという特殊な体質もいるかもしれないが、

見えるものしか信じないという人間は、オーラが見えるなんてぶっ飛んだ話はまず信じないはずだ。

 

そうなるとその様な人間が認めなければいけないのは、目に見えるものはこの世界のほんの一部だけという物理学的にも解剖学的にも確認されている事実である。

 

しかし自称目に見えるものしか信じない人間は、そこを都合よく頭の中から消し、

(空気など)見えないものの存在は知っているが、

見えるものしか信じないという矛盾を当たり前の様に堂々と言い放っている。

 

 

 

さらに驚くべきことに、その矛盾を抱えた人間の方がこの世の大半を占める。

 

 

 

 

この様なことがなぜ起こるのか。

結論を先に言うと、それは宗教に対しての理解が浅いからである。

 

ここが上で述べた宗教について考えることの大切さであり、

この記事の一番重要なポイントである。

 

日本人は宗教に対しての認識がずれている。





まず日本人に”信仰する宗教はあるか?”と聞くと

ほとんどが”ない”、もしくは”自分は無宗教”だと答えるだろう。

 

 

日本の文化は特殊で、

人が死んだら仏に祈りつつ、

新年を迎えると当たり前の様に”初詣”と言って神社に赴き神に祈る。

そしてそのつい数日前の12月25日にはケーキを食べてキリストの誕生を祝っている。

 

日本ではこれらはもはや行事であって宗教ではない。

だからこそ日本人は”自分には特別な宗教はない”と本気で思っている。

 

 

 

 

しかし実は日本人は非常に宗教深い国民である。

 

お年寄り、若者を含む日本人が宗教を持っているにもかかわらず、

本人たちはそれに気づいていないことがほとんどだ。

 

 

 

自分たちが宗教的な思想を持っていると気づかないのは

日本の宗教は、学校教育の一部に取り入れられており、

義務教育が始まった瞬間から国民全てがその環境に身を置くことになるからである。

 

 

 

一番わかりやすいのは”道徳”

 

小学生のうちからモラル人としてのあり方を道徳の授業という形態で教わるが、これにはどう見ても宗教的な教えが組み込まれている。

主に神道や仏教、儒教などの考え方が盛り込まれてる授業が、宗教の考えという形では教わらない。

 

だから子供たちはそれが当たり前で、人として当然のことだとしてそれを信じる。

 

 

他にも

クラスやトイレを自分たちで掃除したり、

給食の準備や片付けは自分たちで行なったり、など

当たり前だと思われる学校の習慣も、深く考えると奇妙な習慣である。

 

日本以外で上記の二つを子どもにやらせる義務教育を持つ国はない。

子供達がそれをやるとしたら、教会や寺などでの宗教的な教育活動の一環である。

 

 

 

ここまでを考慮して、日本の義務教育を終えておきながら

未だに自分は無宗教だと答えられる人はどれくらいいるだろうか。

 

多分ほとんどいないだろう。

 

日本人の厳しすぎとも言える常識は他でもなく、

日本の宗教的な教育から生まれているものである。

 

 

本当に自分が無宗教だというのなら、

日本の常識には一切従わない人間なのだから、多分日本で生活していくことはほぼ不可能なはずだ。

 

無宗教の人間にとっては

墓石はただの石なので、蹴飛ばすことだってできる。

死骸はただの物体なので、ぞんざいに扱うことができる。

鳥居はただの飾りなので、目の前にゴミをポイ捨てすることもできる。

 

 

実際にはやらないにしても、これを何も感じずにできるという人間は

非常識というレッテルを貼られる。

 

 

 

日本の様な宗教的教育方針がない諸外国に宗教が存在するのは、

人々の生き方をある一定の常識ある方向に導くためである。

 

なので宗教は危険なのものでは全くなく、

むしろそれがなければ世界はさらに大変なことになっていただろう。

 

 

 

それでも先進国では無神論者や、宗教を持たない人は多い。

しかしその人々も、周りの人間の常識の中で生きていることがほとんどだ。

 

その常識が生まれるのは、元をたどれば宗教的思想からだ。

 

なので常識に従っている時点で宗教的概念に従っていることは本人たちは気づいていない。

だからこそ自分は無宗教だと言うのはただの勘違いだ。

 

 

 

ここまでしっかりと理解して、そこから少し考えればある事実に辿り着く。

突飛している様に感じるかもしれないが、日本の義務教育は子供達に勉学を教えることが目的と同時に、

洗脳をすることが目的でもあると考えている。

 

 

これを読むまで日本の学校教育に宗教的概念がふんだんに盛り込まれていることを知らなかった人は、

当たり前に学校で習ったことを信じていただろう。

 

義務教育は全保護者に義務付けられているため、日本にいる時点でそれに逆らうことはできずに子供を学校に預けることになる。

周りの生徒もそうして、社会に出ても日本社会自体の常識が同じ認識なので、おかしいということに気づくことはかなり難しい。

 

つまるところ日本の義務教育とは、

そこらへんの宗教よりもよっぽど強力な洗脳である。

 

 

 

こんなことを言われて

そんなわけがあるか!と感じてしまうのも日本の教育に見事に洗脳されている証拠であり、

今信じている常識を信じて疑いたくないのならそれはそれで良いと思う。

 

もちろんそっちの方が楽だし、日本にいるのであれば周りと一緒にその常識の中で生きることは別に苦ではないだろうから否定はしない。

 

 

 

一方これを読んで少しでも

なるほど。なんか気持ち悪いな笑

と思ったのならば、まだ遅くはない。

 

今からでも日本の常識を疑うことだ。

 

 

 

今まで信じて来た常識を疑うとなると、どうすればいいかわからないだろう。

 

それを正しく知るために、この世の真理について自分で考える必要性がある。

 

 

その真理を考えるために必要となってくるのが

古くから伝わってきた、宗教的な概念なのである。

 

 

 

だからこそ始めに言った通り、

宗教的な知識をつけることは重要だ。

 

特に宗教を信仰していなくとも、

自分自身でこの世の真実とは何かを突き詰めようとした瞬間に

宗教の知識は不可欠だと気づくのである。

 

 

少なくとも自分は日本を出て、違った常識から日本の奇妙さを考えた時にそこにたどり着いた。

 

今ではそれに気づけて本当に良かったと思っている。

なぜなら一つの考えに捕らわれずに物事を見ることが何よりも大事だと学ぶことができたからだ。

 







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